防災・減災への指針 一人一話

2013年11月29日
地域における子どもたちの在り方とは
高崎中学校教頭
中村 幸弘さん
高崎中学校教諭
狩野 彰一さん

耐震工事の成果

(聞き手)
 発災直後の対応や出来事などで、印象に残っている点はございますか。

(中村様)
私は高崎中学校の前は大衡中学校に勤務していました。山に近い所だったので、長い地震が終わり、揺れている最中はどうなるかという心配をしても、物がどんどん崩れていて職員室から動くことがあまりできない状態でした。
そこで、まずは出口を確保し、職員室の机の下に隠れていました。
子どもたちが卒業式の直後で帰宅したところだったので、子どもたちを誘導する必要がなかったところは良かったと思いました。理科の先生はビデオを持って、すぐに外に飛び出して、その様子をビデオに収めていました。電信柱や電線などが今まで見たことないような揺れをしていて、大変だったという話は聞きました。
しかし、宮城沖地震クラスの地震が来れば、校舎が崩れてしまうと心配していたのですが、耐震工事が終わった後だったので、大きな被害は出ずに済みました。耐震工事によってそれだけ頑丈に作られているということに感心しました。

(狩野様)
平成23年3月11日午後2時46分に地震が起きて、49分には津波警報が出ました。
当時は6メートルという予想でしたが、20分ほど後になって、10メートルに変わったと記憶しています。
沖合の津波計は、あの時に実際は10メートルを観測していたのですが、まだ半信半疑だったのか9.1メートルにしたそうです。
しかし、仮に津波が6メートルだったとしても、卒業式が終わってからイオン多賀城店にみんなで集まろうと言っていた女子生徒がたくさん居たようだったので、生徒たちが心配だと同僚と話したことを覚えています。
他の先生方と校舎の点検をしたら、大人1人では起こせないくらいの重さの暖房機のほとんどが倒れていました。
たまたま生徒も居なかったので、事故が起きずに済み、ほっとしました。
しかし、その時は停電、断水し、ガスが全て遮断されて、ヘリコプターの音とサイレンの音しか聞こえない状況でした。
また、雪も降り出してきたため、当時の校長と大変な事態になったと話した記憶があります。

(聞き手)
生徒の皆さんの安否確認はどうされましたか。

(狩野様)
体育館に十数名の生徒が居たので、その生徒の無事は確認できました。
しかし、大津波警報が3月13日の朝まで解除されなかったので、2次災害を心配していました。
震災当日の午後3時前には、数名の避難者が来ていて、そこから学校避難所として開設して、最大で1362名くらいの避難者がいました。
後から分かったのですが、発災直後にみんなが着の身着のままで居るという状態は、「災害のハッピー期間」と呼ばれるそうです。
その時はみんなが同じ境遇のため、助け合おうという雰囲気でした。
多くの人が居た中で余震が続きましたが、私たちの学校は耐震化されていたため、スピーカーで「震度6でも壊れない作りなので安心してください。」と私が言ったら拍手が起きたのには驚きました。避難者の皆さんは不安だったと実感しました。

(聞き手)
狩野先生のその当時の役割は、住民の方へ周知する役割だったのでしょうか。

(狩野様)
私は安全係でした。教務主任には、無線機を持って市役所に行ってもらいました。安全係というだけで、なぜそのような立場になってしまったか分からないのですが、とにかく、指示を出すような立場になっていました。
午後3時50分くらいに市役所の担当者が来ました。そこから市職員の詰め所づくりなどが始まったのですが、高崎中学校は非常にうまく立ち上げられたと思います。
また、多少のトラブルは起きたのですが、区長さんたちに集まってもらって、その日の晩には自治会の原型のようなものができました。

内陸部と沿岸部の違い

(聞き手)
 大衡村でも、多賀城と同じような避難体制になっているのですか。

(中村様)
大衡村では、地区ごとの組織がきちんとしているものですから、避難場所として学校は使わず、家のそばにある集会所に集まって、そこに支援物資を持って行っていました。内陸だったので、そのまま帰宅される方が多くて、大きな混乱はありませんでした。
学校避難所としての役割を持っていませんので、そういう意味では高崎中学校とは状況が全く違います。
学校はライフラインが止まってしまいましたので、人が来てもどうにもならない状況でした。そのため地区によっては、集会所のほうが、水が出るとかトイレが使えるなどの面で便利なところがあったのかもしれません。

年度末の業務への対応

(聞き手)
 当時の対応で大変だったこと、困ったことは何だったのでしょうか。

(中村様)
私自身は、避難所の運営に携わっていないので、個人的な見解になりますが、学校の職員が集まるにも、ガソリンが調達できないなどの面で先生方が自由に動けない部分があったのが一番困ったことだったような気がします。
また、3月は異動や転勤があった時期で、年度末のまとめをしなければいけない時期でもありました。仕事が山ほどある中で、私たちにとってはどちらかというと学校業務の停滞の方が心配でした。
子どもたちはちょうど受験が終わり、この後、進学などの手続きをとったりしなくてはいけない時期を控えていました。ですからその手続きがうまくできるか、私立高校などにお金を納められるのか、そうした心配がありました。

(聞き手)
大衡中学校や高崎中学校での防災訓練や避難訓練はどのような形でやっていましたか。

(狩野様)
高崎中学校では年に2回で、地震と火災、たまに不審者を想定していた訓練を行っていました。

(中村様)
大衡中学校では津波は全く想定していないので、とにかく校舎が崩れないように、早く校舎から避難することや、家族へどのように引き渡すかなどの練習をしたことがあります。
何かが発生した場合には、家族に引き渡すまで学校にとどめるなどの約束事はありました。

無線機の活躍

(聞き手)
 うまくいった対応は、どのような点でしたか。

(狩野様)
私たちの学校では無線機があり、教育委員会と常にやり取りできたのが、一番うまくいったことです。
震災当日午後4時ちょうどに教育委員会宛に、「毛布と食料を300人分、至急送ってください」という要望を出したところ、午後4時10分には届きました。
当時、避難所の設営や運営は市の仕事だという意識が、私たち教員には強くありました。
しかし、あれだけの被害があって、そんなことを言っていては駄目だと思い、私たちの学校なので、とにかく自分たちで決めて、教員でやれることはやろうという意識の切り替えがとてもうまくいったと思います。自分たちでの運営、対応のやり方が実感できました。それに加えて、寒い時期で良かったと思いました。もし伝染病などが発生する時期だったら、本当に大変だったと思います。

(中村様)
あの晩は寒くて大変で、外でずぶ濡れになって、寒い思いをした人も居たと思います。しかし、その後の避難生活を考えると、暑い時期よりは良かったのではないかと思います。

助け合った事を心の支えに

(聞き手)
 今後の復旧、復興に関してのご意見をお聞かせください。

(中村様)
あの時あったことを語り継ぎながら、忘れないことが大切だと思います。それをできるだけ具体的に、こんな活躍をした人が居る、こんなことをやったから命が助かったのだというように、大事な部分をみんなで語り、共有していかなければいけないだろうと思いました。
私は、大衡村からこちらに、震災後1カ月も経たない中で赴任したのですが、先生方が何日も交代で泊まりながら、避難所の運営をして非常に協力的だった姿や、卒業生が制服などの物資を持ってきてくれて、鞄なども山ほどあったことが印象的でした。津波でそういった物を流されてしまった子どもたちがたくさん居たのですが、自分の家で使わなくなった物などを、次の学年の人たちに使ってもらうような助け合いの姿を目の当たりにできました。
このように、困ったときに助け合った人たちが居たからこそ、今こういう姿があるのだということを伝えていかなければいけませんし、全国からの支援なども含めて、それを心の支えにしながら、復旧、復興につなげていくのが根幹の部分になると思います。

防災無線と備蓄倉庫の重要性

(聞き手)
 心構え以外の、物質面でのご意見やお考えはございますか。

(狩野様)
多賀城市の場合、震災後、防災行政無線を全て取り替えたり、備蓄倉庫ができたりとハード面の手当は非常に立ち上がりが早いと感じています。ですが、それを活かすのは現場の人間なので、行政任せではなく、自分たちができることは全て自分たちがやるという考え方が、次のステップとしては大事だと考えています。

(中村様)
多賀城市には、防災行政無線もたくさん立ててもらい、備蓄倉庫に関しても、あの当時なかったということが大きな反省だったと思います。そういうところを優先的に準備してもらい、校舎の復旧なども早急にやってもらったおかげで、子どもたちにとっても安心・安全な生活ができる環境を作ってもらいました。ハード面でも早急に必要な物を用意してもらい、非常にありがたいと思います。

地域における子どもたちの在り方

(聞き手)
避難経路が今後さらに整備されていくという予定なのですが、最近の子どもたちは、地域をあまり知らないというような声も聞こえてきます。そのような生徒の地域感についてどうお考えですか。

(中村様)
地域は本当に大事にしていかなければいけないということを実感しました。現在、本校では地域子どもたちで声を掛け合って避難することや、地域の集会所にまず集まって、身元を確認しようということを、狩野先生が中心となって、地域との連携を強めながら行っているところです。
やはり子どもたちには将来、地域の人たちに対して活躍でき、地域に恩返しができるような人間になってほしいという気持ちもあります。
地域の人たちにも、この地域の中学校は、将来自分たちの地域を支えてくれる子どもたちを育てている学校だという意識があると思います。地域子どもたちを、地域のために活躍させるような声掛けも実際に行い、地域の役割を担わなければいけない立場なのだということを、子どもたちの間に浸透させられれば良いと思っています。

(狩野様)
今の中村教頭先生の話と同じなのですが、平成24年12月7日に津波警報が発令された際、本校の避難率は46パーセントで、半分以上が実際には避難しなかったそうです。
それは経験の風化でもあると思うのですが、その後、平成25年10月26日に津波注意報が出たときに取ったアンケートの中で、どうしたら逃げるのかという問いかけに対して、「友だちに逃げようと言われたら逃げる」或いは「家族であらかじめ、ばらばらでもいいから逃げなさいと決められていれば逃げる」という答えが多く見られました。
その時に、教員の仕事は二つあると思いました。
一つは、逃げるように声掛けをし、自分は見捨てられていないと再認識させることです。
もう一つは、避難所での役割を与え、生徒たちに役立つことができるという認識を与えることで、仕事のために避難所に向かわせることです。そうすれば避難率も上げることができます。

(聞き手)
最近は学校地域のつながりとして、様々な地域の方を巻き込んだ行事をされているところが多いです。高崎中学校では、そういった行事を何かされていますか。

(中村様)
学校行事が授業削減によって減ってきたので、地域の方に直接見ていただく機会は非常に少なくなってしまいました。体育祭などでは地域の方に来ていただくようにし、近所の仮設住宅の方達を招待して、体育祭で子どもたちの活躍する姿も見てもらうためにご案内状を出させてもらっていますが、より地域と連携するものがあると良いと思っています。
しかし、幸いなことに、高崎地区のおまつりが高崎中学校で行われます。その時は地域の方たちも子供たちを楽しませるために頑張ってくださって、子供たちも喜んで来ています。他にも万葉まつりもありますし、そういったものに参加しながら、子ども地域の輪が強く結びついていけばいいと思っています。

語り継ぎの大切さ

(聞き手)
 東日本大震災を経験して、後世に伝えたいことはございますか。

(中村様)
実際に自分たちが経験した、お世話になったことや嬉しかったことなどを語り継いでいくのが一番です。
文書にしておけばいいという話ではなく、これは語り継いで、何度も聞かせることが必要なのだろうと思います。
東日本大震災の時にお世話になった話などを語り継いでいくことは、色々な意味で絆を深め、良い共同体を作る一つの方法でもあります。
同時に、道徳心の向上にもつながっていくと思います。

(狩野様)
「今の若い人は」とよく言われますが、あの当時の様子では、中学生に関わらず、20代の方、30代前半の方の避難所での活躍は凄かったと思います。
あの時には、年齢など関係ないということをとても強く感じました。

子どもたちの変化・成長がもたらす効果

(聞き手)
今の若い世代の活躍は、先生方から見てどうでしたか。

(狩野様)
停電して水が出なかったため、まず困ったのはトイレの水でした。そのため、屋上にあるプールからの水運びが始まったのですが、誰も動きませんでした。しかし、初めに手伝ったのは生徒でした。
その後に、大人が手伝い始めていき、うまく回るようになりました。何度も繰り返していくうちに慣れてきたようで、後は指示を出さなくても自分たちで行っていました。
また、少し経ってから炊き出しの配給がありましたが、配給に関して殺気立っている方もいました。
そこで、市の職員が、炊き出しの案内を小学生にお願いしました。そうすると、悪い見本を示す大人がいなくなりました。
また、卒業式の当日に発災したのですが、いたずらばかりして怒られていたような生徒が、率先して活躍していました。

(中村様)
市内に、多賀城ロジュマンというマンションがあるのですが、震災当時、エレベーターが止まって、水運びに困ったそうです。
ですが、中学生や高校生が一生懸命に水を運んでくれて、本当に助かったと、後でそこの住人の方からお聞きしました。
今はあまり人の助けをしなくても済んでしまう世の中になっているので、近所の人のために何かをしてあげるなどの経験が少なかったと思うのですが、実際に困った状況になれば、自分が活躍して、ありがとうと言われることがこんなに気持ちが良いという事に初めて気がついた子ども達も居たのではないでしょうか。
人から頼りにされたり、ありがとうと言われたりすることで、自分自身も心地良くなりますし、もっと人のために何かしたいという気持ちにもなってくれると思います。
全国から若いボランティアが来てくださって、名も知れない家の泥のかき出し作業をやってくれた人たちがたくさんいましたが、日本はこんなに素晴らしい活躍をする人がいるのだという事にも感動しました。
有名な芸能人などが来て炊き出しをしてくれたことも有難かったのですが、全く知らない人たちが来て、黙々と地味な仕事を一生懸命やってくれたことに嬉しさを感じました。

(聞き手)
 これまでの内容以外で、何か話しておきたいことはございますか。

(狩野様)
私は自衛隊、警察、消防、消防団、海上保安庁、それからボランティアの方たちに本当に感謝しています。実際、自衛隊への志願者も増加しているようです。自分の国の国民を守らないどころか、国民を抑えつける軍隊を持つ国のニュースを目にする中で、わが身を犠牲にしてまで国民のために活動してくれた事を目の当たりにして、日本は本当に良い国なのだなと感じました。

心のケアの必要性

(聞き手)
 現在の多賀城の復旧、復興状況はどのように感じられますか。

(中村様)
日本の底力が本当に凄いと思ったのは、現在のイオン多賀城店周辺を見た時のことで、目を見張るような復興だと感じました。
私が来たばかりの時は、まだ車の残骸が山積みになって、中央分離帯の所に車があるような状態だったのですが、わずか数年の間にここまで復旧できて、どこにそんな力があったのだろうかと驚きました。
確かにまだ、仙台市の荒浜や閖上、石巻などでは住宅の跡だけしか残っていないような所があるのですが、街並みはだいぶ復興してきています。
あれだけの思いをしながらも、これだけ立て直して、またそこに住み、守っていこうという人たちがたくさん居て、それを自分たちの務めだと思っている人達もいます。
被災地に来て元気をもらったような気がするとよく皆さんが言いますが、本当に被災地でたくましく生きている人たちからは、素晴らしいエネルギーや考え方をもらったと思います。
多賀城は、そういう意味では、あっという間にハード面では元の姿になりました。
また、震災当時の多賀城市では、学校耐震工事が全て終わっていたということが大きな要因となり、子どもたちを助けられたのだろうと思います。
学校が崩れていたら、本当に目も当てられないような悲惨な状態になっていたでしょうし、避難所としても活用できない状態になれば、多くの人たちが路頭に迷っていたと思います。
そういう意味でも、多賀城市には素晴らしい恩を感じていて、皆さんの力は本当に素晴らしいなと思います。
しかし、心の面ではまだ傷ついている部分もあり、悲しみを抱えている人も居ると思いますので、その人達のことも心に留めながら、引き続き長いケアをしていく必要があると思います。

ひとづくりとまちづくりの関係性

(聞き手)
多賀城市の新しいまちづくりに対する思いはありますか。

(中村様)
まちづくりに関しては、多賀城市の教育方針の中に、「多賀城を知り、多賀城を語れる児童、生徒の育成」という言葉があります。
子どもたちが自分のふるさとをよく知り、そして自分たちのまちを他に行って語れるような、そういう人材に育てていくことが、多賀城市の将来のまちづくりにつながっていくと思います。
震災からのハード面の復旧は、もちろん市でやってもらい、一部は企業にも頼らなければいけないものです。
私たち、学校としてできることは、多賀城を愛する子どもたちを世に育成していくことだと思います。